6月23日は沖縄にとって特別な日です。
沖縄戦で亡くなった人々の為に祈り、二度と戦争は起こさないと誓う日ですね。
自分も昨日はこの慰霊の日の式典に参加したのですが、一年に一度のこの日ぐらい平和の存在を思い出してもいいんじゃないかと思いまして。
終結からまだ70年も経っていないあの戦争で苦しんだのはもちろん沖縄だけではありません。
ただせっかくなので、今回は自分が小さい頃から聞かされてきたこの「沖縄戦」について、少しだけお話したいと思います。
※この記事は少しショッキングな内容を含みます。
沖縄県外にお住まいの皆さんが知っている、沖縄戦についての認識とはどういったものでしょうか?
「第二次世界大戦における太平洋地域での最大規模の陸戦」とWikipediaには書いてあります。
かつて沖縄で地上戦が行われた、そんな辺りでしょうか。
実際その通りで、全ての住民を巻き添えにここ沖縄で地上戦が行われました。
沖縄戦の話でよく聞く表現のひとつに、「鉄の雨」というものがあります。
降り注ぐ銃弾で道がなくなり、地形が変わってしまったそうです。
防空壕を掘ってそこに避難しますが、飲み水がなくなればその銃撃の雨をかいくぐって水を汲みに行かなければいけません。
外に出ても死、中にいても爆弾が投げ込まれ、火炎放射器で焼き殺され、どこにも逃げ場はなかったと聞きます。
民間人が隠れている防空壕に直接攻撃が加えられたのには、米兵が投降を促したが応じなかった・そもそも英語が通じなかった、などの背景があります。
米兵に捕まれば酷い目に遭わされて殺される、多くの人々がそう信じていたからです。
そう信じて、家族や友達とでより固まって自分達の手で手榴弾を爆発させ、自ら命を絶った方々もいました。
自分が小中学生の頃、この時期は必ず沖縄戦についての学習をしました。
その時決まって聞かされるのは、自分達と同じような歳の子供が区別なく戦争に従事させられたという事実です。
戦時中、ある小学校ではその日の授業を中断してクラス皆で近くの海に出掛けたそうです。
そこで年端もいかない子供達はある物を拾い集める仕事をさせられました。
それは海岸に流れ着いてくる、「ばらばらになった死体の手や足」です。
女生徒は兵士の救護にあたりました。
まだ中学生ぐらいの女生徒達が、傷ついた兵士の手足を麻酔なしで切断する手術に参加させられたと聞きます。
悲鳴を上げて暴れまわる大の男の体を、泣きながら数人がかりで押さえ付けたそうです。
戦争から逃れようと、本土へ疎開しようとした人々にも安住の地はありませんでした。
親元を離れて沖縄を出ようとした子供達を乗せた船は魚雷によって撃沈、700名あまりの児童が海に沈んでいったそうです。
この船の名前を、「対馬丸」と言います。
戦争で亡くなったのは沖縄県の住民だけではありません。
日本軍の兵士も、アメリカ軍の兵士だってそうです。第二次世界大戦という規模で言えば、日本を含む世界中の人々が辛く悲しい思いをしたと思います。
数十年前の戦争のことを思い返し、平和の大切さを考える機会は今となってはなかなか無いと思います。
ただ一年に一度ぐらいは、戦争という行為の恐ろしさを、平和であるという事への感謝を思い出してもいいのかなと。
実際に戦争を経験した、あるお婆さんの一言が胸に突き刺さります。
「平和な時代に生まれてこられて、良かったね。」